誰かに呼ばれた気がして、クラウス・アルベンハイムは目を開いた。否、自分は眠ったままだ。はっきりと夢だと認識している妙な感覚を味わいながら、彼は周囲を見渡した。
その空間は、見渡す限りの闇、闇、闇。どちらが上で、下かも分からない。まるで宇宙に投げ出されているかのような錯覚を感じる。遠くできらめいているのは星だろうか。その光と自分の体だけが、その世界を認識するための座標だった。
ふと、近くに現れる存在感。強く、それでいてどこか儚い雰囲気。クラウスが目を向けると、そこには彼と同じ年頃の少女が立っていた。
雪のような白い肌。シンプルな黒のワンピース。闇の中なのにはっきりと見える綺麗な少女は、クラウスとは間違いなく初対面だ。
しかし彼は、確信を持って頷き、彼女に笑いかけた。
「はじめまして、でいいのかな。君が、闇の書だよね?」
第4話 はちみつ色の思い出 闇の書の名を呼ばれた彼女は、小さく頷いた。それから、さらにクラウスに近づいて、ひざまずくようにして頭を下げる。背中まである白銀の髪が、彼女の肩からさらりと流れた。
「お初にお目にかかります、主クラウス。蒐集が400ページを超え、人格起動が可能になったため、主の元に馳せ参じました」
「そうか――ありがとう。ここは君の心の中、なのかな?」
「闇の書の世界でもあり、貴方の夢でもあります。直接ではなく、このように夢の中で挨拶する無礼、お許しください」
頭を下げたままで話す彼女に、クラウスはそっと苦笑して口を開いた。
「――頭を挙げて。何となくだけど、君は少しシグナムに似てるね」
顔を挙げた少女は、主の顔をまっすぐに見つめる。
紅玉のような、赤の瞳。クラウスと同じ、血の色をした目だった。
「主のお許しがいただければ、私はいつでも貴方と会話が出来るようになります。恐れ入りますが、どうぞ許可を」
「ああ、もちろん。許可するよ」
「ありがとうございます。追って守護騎士からも連絡されると思いますが、現在の蒐集は410ページ。現時点では実体化も出来ず、主のお役には立てませんが――全ページ揃ったあかつきには、貴方の願いを、叶えます」
凛とした瞳に見つめられて、クラウスはわずかに目をそらせた。
自分の願いに、やましいものを感じたからだ。
「君は、もう僕の望みを知っているのかな?」
「はい、分かっているつもりです。闇の書の封印が解けてから、私からのアウトプットは出来なくとも、本の中から貴方を見ていましたから」
「――僕のやろうとしているは、ただのエゴなんだろうか」
クラウスの台詞に黙ったままの少女に、彼は自らの赤の瞳を向ける。
「守護騎士たちは、文句も言わずについてきてくれるけど、時々、どうしても自己嫌悪におちいるんだ。君は、どう思う?」
「申し訳ありません、私には分かりかねます」
「うん――ごめん。自分の選択は、自分で責任をとらないとね。君たちに頼っているくせに、君たちにその是非を問うなんて、主としてマナー違反だ」
闇の書は、困ったようにわずかに眉をひそめた後、元の無表情に戻って口を開いた。
「お気になさらないでください。主クラウスの是非を判断することは、私には出来ません。ですが私たちは、貴方を単なる所有者として以上に信頼しています。貴方が真の主となることを願い、良き所有者であり続けることを信じています」
そして自分が主にふさわしい人物に成長したとして、その犠牲になった人たちは浮かばれるだろうか。命を落とした人もいるだろう。そうでなくとも、未来を狂わされた生き物が、少なくともページに蒐集された人の数だけいる。
クラウスは、湧き上がる感傷を無理に抑えて、闇の書の気遣いに礼を言った。今しがた反省したばかりではないか。一度下した決断を迷ったら、ついてきてくれる人までも裏切ることになる。それでは、誰も報われない。
クラウスは、軽く首を振って頭を切り替える。少女の整った顔を見つめ、思い出したように呟いた。
「それにしても、今更なんだけど――」
首をかしげるクラウスを見て、闇の書は同じように首の傾斜をつける。
「君の事は、なんて呼べばいいのかな?」
「私は、闇の書の意志であり、闇の書そのものでもあります。そのまま呼んでいただければ結構です」
「うーん、なんだか呼びづらいな……何か別の名前で呼んでもいいかい?ニックネームがあった方が言いやすいし」
「――」
言葉に詰まる少女の前で、ぶつぶつと人名らしき単語を口ずさむクラウス。十数秒して、彼は眉を八の字にしながら首を振った。
「駄目だ……センスがない自分が恨めしい。今度、ヴォルケンリッターのみんなとも相談してみるよ」
「――本当に、貴方は変わった主ですね」
呆れたように口にして、彼女ははじめて主の前で微笑む。クラウスも、片目をつむりながら口元を緩めた。
「重要なことだろう?これから長い付き合いになるんだし、ね」
*
クラウスは再び目を開ける。見慣れた天井。差し込んでくる光。今度は確かに眠りから覚めたようだ。
しかし解せないのは、守護騎士四人(三人+一匹)が勢揃いで自分を見下ろしていること。今は何時で、これは一体どういう状況なのだろう。
「主クラウス!」「体調はいかがですか主」「クラウス……!」「主様!大丈夫ですか!?」
主の「え〜と」という呟きは、ヴォルケンリッターの声によってかき消された。
額に手を当てて、自分の記憶をたどる。
「そうだ、昼間、舞踏会に行って、帰り際に――」
呟くクラウスの手をとり、シャマルが彼の顔を覗き込む。
「――うん、脈拍は正常。熱もすっかりひいたみたいですね」
「急に倒れられたので、驚きました」
シグナムが目を細めて主を見る。いつもの凛々しい表情とは少し違う、安堵の笑顔。
「心配かけたね、シグナム。それにみんなも。ありがとう」
頷くヴォルケンリッターの面々の中、一人だけ俯いたままの人物がいた。
「ヴィータ、どうした?」
「……とに…い………な」
呂律の回りはともかく、いつもはっきりと話す少女が、抑えつけたような声を漏らす。何事かと体を起こして聞き返したクラウスに、ヴィータが突進してしがみつき、額を胸に押し当てた。
「本当に、心配したんだからなっ!!」
震えた声だった。
服がしわになりそうなくらいに、強く握られる。
その体当たりの気持ちに、クラウスは胸を詰まらせる。少しの間ためらった後、小さな肩にそっと手を添えて、頭をなでた。
「――ごめん、ヴィータ。もう大丈夫だよ。そう簡単に、どうにかなったりするもんか」
「もう二度と、勝手にぶっ倒れたりするんじゃねぇぞ、バカやろう……」
「ん、約束する」
朱色の髪を梳いていると、彼女はおもむろに頭を離し、クラウスに背中を向けた。シグナムのため息も、シャマルの「あらあら」という楽しげな声にも反応しない。
一方で、獣形態のザフィーラは至極冷静に主に話しかけた。
「主殿、今までにも同じようなことはあったのですか?」
「あったね、確か二回。これで三回目。発作、なのかな。その時はすごく息苦しくて脱力感があるんだけど、しばらくすると何事もなかったみたいに治まっちゃうんだ。一応医者にも診てもらったんだけど、特に異常は見られないって」
「そうですか。一回目はいつ頃のことか、覚えていますか?」
「そうだなあ……十三才の冬、かな」
「その頃に、何か変わった出来事は……」
「変わったこと、かぁ。その年は、色々あったからね」
クラウスは曖昧に微笑んで、部屋の中を見渡した。
本棚に置かれている父の日記。机の中にしまってある、母の形見の髪飾り。今も身につけている、兄姉にもらったお守りのリング。
良いことも悪いことも含めて、当時の沢山の思い出が部屋の中に残っている。
「でも、やっぱり、印象強いのは二つかな。一つ目はその年の春に母が亡くなったこと」
さらりと述べた一言が、その場に重い沈黙をもたらす。クラウスは気付かないふりをして、続きを話した。
「こういうご時世だからね。仕方がないとは思うけれど、すごく悲しかった。だけど、もう一つは良い方の話だよ。はっきりとは覚えてないんだけど、その前後に、僕は闇の書と出会ったんだ」
*
「……どう思う?」
客室に戻るなり投げかけられたヴォルケンリッターの将の質問に、ザフィーラは首を傾げた。質問の意味を読み取れなかったわけではない。しかし彼も、主の症状と発言について、どういう意味を持つのかを判断しかねていた。
「分からん。だが、今回主が倒れた原因が闇の書である確率は低い」
「そうだな。初めての発作と今回のものが同じなのだとしたら、闇の書の侵食が原因とは考えにくい」
ザフィーラの意見にシグナムが同意する。一度目の発作が、主が闇の書を所有してから約半年。もし闇の書の侵食でクラウスが倒れたのなら、今現れる症状はその時よりもずっと深刻なはずだ。
「私が診た感じでも、闇の書の侵食は感じられなかったわ。だけど――」
言いよどむシャマルに、残りの二人は無言で目を向ける。彼女は自信がなさそうに目を伏せて再び口を開いた。
「クラウス様の魔力がかなり減少していたの。普段の半分以下。多分、倒れたときはもっと少なかったんじゃないかしら」
シグナムはあごに指を添えて目を閉じる。少しして、眉をしかめて首を振った。
「しかし、主クラウスにはそれらしい予兆はなかった。激しい運動をしたわけでも、まして強大な魔法を使ったわけでもない」
「特に変わったこともなし、か。その場に、主の他にも体調を崩したものがいたら、推測もつきそうなものだが」
「それもなかった。私も、ベルンハルト殿も大丈夫だった」
そこで、真剣で鋭かったシグナムの目つきが優しいものになる。ザフィーラが不思議に思って耳をひくつかせると、彼女は口元を緩めて言った。
「ああ、主が倒れたときのことを思い出してな。あの時は血の気がひいたが、ベルンハルト殿が珍しく取り乱していたのが新鮮だった。移動中、あの方はまるで父か母が子にするように、ずっと主クラウスの手を握っていた」
「大切に思っているのね。クラウス様のこと」
穏やかに微笑み返すシャマルの横で、ザフィーラは一人、違和感に喉をうならせた。
家族を大切に思うのは何も不自然ではない。両親のいないアルベンハイム家であればなおさらだろう。現にベルンハルトは、クラウスのことをよく気にかけ、見守っていた。
だが――気になる。
あの若き領主は恐らく、大事であるほど、感情を切り離し、冷徹に事を進める、そういう類の人間だ。
一番を捕るために、二番目以下を諦めることができる。
上に立つものにはしばしば求められる、強く、醒めた心の持ち主。
その彼が、家族が倒れたときに、人並みに動揺などするだろうか。
可愛い弟が倒れたのならば、慌てず騒がず、すぐさま医者を呼びつけ、休憩するための部屋を手配する。その方がよほど彼らしい。
(とはいえ、疑っていたらきりがないか――)
常に一歩身を引き、周囲に気を配るのが自分の役目だとザフィーラは思っている。しかし、神経質になりすぎては、逆に重要なことを見失いかねない。疑心暗鬼にかからず、しかし誰をも信じすぎない。主の守護獣たる自分には、それくらいの気構えがちょうどいい。
ソモソモ、主デスラ、イツ狂気ノ闇ニトラワレルトモ限ラナイノダカラ――
「っ!?」
自分の中をよぎった、この上なく不吉な予感に、ザフィーラは身震いした。
(何だ、今のは――!?)
想像にしてはあまりにもリアル。
まるで、悪夢のように、来て欲しくないものばかりが近寄ってくる、不快な幻。
鼓動が治まらない。
何度か深呼吸をしてから、にじみ出る冷や汗を振り払うかのように顔を振るわせた。
「どうしたの、ザフィーラ?お腹すいた?」
「い、いや――なんでもない」
シャマルは目を瞬かせて、彼の様子を見つめる。ザフィーラの心のざわめきとは対照的に、客室の雰囲気は穏やかなままだ。シグナムは金髪の女性を見て小さく笑った。
「妙な発想だな、シャマル。ヴィータでもあるまいし」
「うー、さっき似たようなことをヴィータちゃんに言われたわ」
「そういえば、あいつは大丈夫なのか?主クラウスのこと以外にも随分と落ち込んでいたみたいだったが」
彼女の疑問に、シャマルは再び顔をうつむかせた。
「さっき、蒼の騎士に会ったの。――完敗だったわ」
穏やかな、しかしいつもよりも重い声が、先程の蒐集の様子を再現する。
蒼の騎士に遭遇して、ヴィータが時間稼ぎをかってでたこと。途中までは彼女が押していたこと。途中から、急に勢いづいた蒼の騎士が、守護騎士を圧倒し、ほうほうの態で逃げてきたこと。
「そう、だったか。しかしヴィータの奴、無茶をする」
「ごめんなさい。でも――」
何かを言いかけるシャマルを制して、シグナムは頷いた。
「分かっている。あいつがどんなつもりでわざわざあの騎士に戦いを挑んだのかはな。それに、私たちの魔力をはるかに上回るなど、一度剣を交えた私ですら想像つかなかった」
「ああ。侮っていたつもりはなかったが、しかし甘かった。今後は奴に一切近づかないか、それとも――」
「全員総力で倒すか、どちらかだな」
「魔力の波長は記憶したから、少なくともあの人がデバイスを出している間は即座に察知できると思うわ。蒐集も後半。慎重に、行きましょう」
ヴォルケンリッターは、頷きあう。それからシグナムが、思い出したように外を見てから、ため息をついた。
「――ということは、今頃ヴィータは主殿に甘えているかもしれんな。困った奴だ」
「あら、それはいつものことじゃない」
可笑しそうに言うシャマルに、シグナムは苦笑半分に同意する。
そしてそれを黙認している自分たちも主に甘えているのだろう、とザフィーラは思ったが、口にはせずに尻尾を一振りした。
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