あの頃の夢を見た。
まだ自分が、誰も、何も信じられなかった時のこと。
周りには、敵しかいなかった。
人間はもちろん、閉じ込められた部屋の壁や空気に至るまで、感じるもの全てが、自分に危害を与えるような気がしていた。
独りでいるときですら、知覚の及ばない何かが、今にも襲いかかってくる気がして。
だから、近づくその手が。
初めて触れる、ぬくもりが。
その心地よさが何を意味するのか、理解できなくて――
*
エリオ・モンディアルが目を開けた時、始めに意識がいったのは、右手にある違和感だった。
触感と温感。手の甲をくるむように、何か柔らかくて暖かなものが乗っている。
「あ――ごめんね、起こしちゃったかな」
鈴のなるような声の方に目を向けると、桜色の髪の少女が、かすかに眉をよせてこちらを見ていた。
視線を下にうつすと、自分の右手が彼女の手に包まれているのが見える。
「あ、あの、キャロ?」
「うなされてるみたいだったけど、大丈夫?」
動揺する自分とは対照的に、つながっている手には気にも留めずに、少女が質問をする。その言葉で、自分が大量に寝汗をかいているのに気がついた。この状態でうめいていたとしたら、何事かと思うのも仕方のないところだろう。
「――うん、もう大丈夫」
頷いてから微笑んでみせると、キャロは安堵のため息をついて、自身の手を彼の右手から離した。
彼女は純粋に彼を心配してくれていたことは、よく分かっている。それなのに、彼女の心遣いとは別のところで動揺してしまう自分が情けない。
ところで、これは一体どういう状況なのだろうか。
エリオは額に手を当てて、ことの経緯を思い返す。どこか霞がかっている頭の中から、今朝方の記憶を手繰り寄せた。
(ええと、僕は、風邪で寝ていたんだっけ――)
ベッドから身体を起こせない自分にシャマルが手を当て、「一日も寝ていれば治るわ」と優しくも有無を言わさぬ笑顔を向けたのが脳裏によみがえる。その雰囲気に気圧されたエリオは、今日の勤務を諦め、大人しく寝ていたのだった。
その後、枕元を離れようとしないフェイトを無理矢理なのはが連れて行き、キャロも一緒に出勤したはずだった。
部屋に差し込む光から察するに、少なくとも夕方というほどの時刻ではない。壁の時計を見ると、正午は過ぎているが、定時にはまだ間のある時刻だった。
そこまで状況を整理してから、ようやく目の前の少女がここにいることに疑問を覚える。どうして、勤務中のキャロがここにいるのだろう。
首を傾げるエリオを見て、考えていることを察したのだろう。キャロははにかむように目を細めて、口元を緩める。
「ティアさんとスバルさんが、私のお仕事を手伝ってくれたの。だから、甘えて早く帰ってきちゃった」
どうやら、スターズの二人にも心配をかけてしまったらしい。風邪が治ったら、きちんとお礼をしなければなるまい。
と、腕を組んで考えたところで。
唐突に、腹の虫が切ない泣き声をあげた。
「あ」
二人で同時に声をあげ、反射的に目を合わせる。エリオは顔を赤らめ、キャロは手を頬にあてた。
「えっと、ごめんね。何かご飯を用意しておけばよかったんだけど……えっと、何かあったかな――」
彼女は眉を寄せながら考え込む。数秒後、彼女は両手を叩いて、駆け足で部屋をでた。
どうしたのだろうと思いながらも身体を横にしてしばらく待っていると、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
心が安らぐような、暖かい空気。
懐かしい、と思った。
(――懐かしい?)
エリオは、自分の感想を不思議に感じる。どうしてそんなことを思うのだろう。
ぼうっとしたままの頭で疑問の原因を探っているうちに、キャロがマグカップを二つ持って、部屋に戻ってきた。
「おまたせ、エリオくん。ご飯はちょっと時間かかっちゃうから、その前に――はい」
差し出されたカップの中には、白の中に琥珀を溶かしたような液体が入っている。
それは、エリオにとっても馴染みのあるものだ。
キャロの顔を見ると、彼女はにこやかに口を開く。
「フェイトさん直伝のキャラメルミルクだよ」
言葉に応じるように、カップからふわりと湯気が立ち上る。
それは、例えるなら母親のような。
優しい――暖かい、匂い。
「そう、か――」
知らず口をついた納得の言葉に、キャロが首を傾げる。エリオは慌てて首を振って、それから礼を述べると共に、カップに口をつけた。
「あつっ」
「あ、ごめんなさい。少し熱かったかな」
ミルクに息を吹きかけるエリオを横目に、キャロは自分のキャラメルミルクを口に含み、そのまま顔を寄せる。
「――?」
その仕草の意味が分からなくて、少年は目を瞬かせた。
桜色の髪の少女は、エリオの顔を、輪郭をなぞるようにそっと抱え、固定する。
互いの唇の距離が30cmを切った時点で、彼はようやくキャロの意図に気付き、慌てて少女を止めた。
「キャロ!?だ、駄目だよ!」
肩をつかんで止めると、キャロは不思議そうに彼を見つめる。
その瞳は理由を純粋に問うているようで、エリオはそれを言葉にできず、口ごもる。
何故駄目かと言われても説明に困るが、とにかく駄目なのだ。察してほしい。
大体、ミルクを冷ませるのに口うつしというのは、あまりに飛躍した発想だ。確かに人肌にはなるかもしれないが……
「じ、自分で飲めるから。ね?」
しどろもどろになりながらキャロに説明しながら、息のかかる距離にいる彼女をそれとなく押しとどめる。
半ば少年に覆いかぶさるようにして顔を近づけている少女。少女の肩を掴んでいる少年。今の自分たちは、他から見たらどのように映るだろう。
その思いつきに対する答えは、すぐに分かることになる。
何故ならば。
「エーリオくん、調子はどう――」
小声で言いながら部屋をのぞきこんだ少女――シャリオ・フェニーノが、彼らを見たまま硬直したからだ。
手には、食材か料理らしき袋を持っている。フェイトの代わりに様子を見に来たのだろうか。
しかし彼女は部屋には入ろうとせず、空いている方の手をあげて、顔の前に立てる。
「お邪魔しました」
「いえ、シャーリーさん、ちょっと――」
エリオが言葉を紡ぎ、キャロが何事かと振り返る時には、彼女はぼそりと呟いた言葉と共にその場から姿を消していた。
部屋の外で小さく物音が聞こえたことから推測するに、見舞いの品を置いていってくれたのかもしれない。
頬袋に種を入れたリスのようになっているキャロは、口をおさえて喉を鳴らした後、エリオを見る。
「シャーリーさんが来てたの?」
「……うん、まあ」
彼女に苦笑しながら答え、内心でエリオは頭を抱える。
こういう場合はどうするべきなのか、エリオには分からない。追いかけるべきなのだろうか、それとも何事もなかったようにするべきなのか。どちらにしろ、気まずいこと請け合いである。
本調子でない意識で考えをめぐらせること数秒。
ため息とともに、彼は悩みを頭から押し出した。
とりあえず、今はこの香りを堪能しよう。
エリオはカップを持ち上げ、そっとすする。
少し甘味が強調されているその液体は、彼の身体を奥から温めてくれる。
知らず吐き出した息は、今度は安堵から来るものだった。
「美味しいよ。ありがとう、キャロ」
「――良かった」
自分の気持ちが少女にそのまま伝わったかのように、彼女は嬉しそうに微笑む。その表情に共鳴するみたいに、胸の奥が温まった。
二人は、無言でカップを傾け、時折思い出したように笑い合う。
穏やかな空気が、ミルクの匂いを乗せて、彼らを包んでいた。
今回のお話、ザフィーラの言葉を借りるなら「世の中には間というものが存在する。
それを逃すとたいていはうまく行かない」って感じですね。
まあ、見てる側からするとそれも面白いから良いんですがw