虫の知らせ、という言葉があるらしい。理由もなく嫌な予感がする、というアレだ。
超感覚じみた現象で、眉つばものだと言う人もいるかとは思うが、存外捨てたものではないとも私は思う。
何故ならば――その声に従ってさえいれば、私はきっと今日も穏やかな日常を過ごせていたはずだったからだ。
部屋に流れる、機嫌のよい鼻歌を聞きながら、私、盾の守護獣ことヴォルケンリッター・ザフィーラはため息をついた。
ここは月村邸。その大きさと住んでいる人々、そして飼っている動物の数がちょっとした評判の場所である。知人であるすずか嬢が住んでいるとはいえ、あまり私やヴィータが立ち入る場所ではない。基本的に、八神家でここを訪れる人物は、主はやてのみである。それがどういう経緯でお邪魔しているのかと言えば、布のかたまりをごそごそと物色している、ライトブラウンの少女、アリサ・バニングス嬢の仕業だった。
その経緯は実にシンプルだ。散歩中のヴィータと私を目にした彼女は、いきなり私を抱え、紅の鉄騎の手を引いて、この場に駆け込んだのである。
「どれにしよっかなー。こっちがいいかな?それとも――」
実に楽しそうな、少女の独り言。声だけ聞けば可愛らしいのだが、それが妙に不穏な音色に聞こえるのは何故だろう。
「あはは……ごめんなさい、ザフィーラさん。アルフちゃんを呼ぼうと思ってたんだけど、外出中みたいで」
すずか嬢が、私を見ながら何故か苦笑する。
どうも、アリサ嬢が次から次へと手に取っている、布切れにかかわることらしい。
その布切れとは何のことかといえば、私には服にしか見えない。
ただし、私が知っている通常のソレらに比べて、明らかにサイズが小さい。リインに着せる――と表現するよりは大きいのだが、それでも小学生でも着られるかどうかは怪しいものだ。
「ん、決めた!これにしよっと」
アリサ嬢がつまみあげたのは、黒のスーツらしき服。
ソレを使って、一体何をするつもりなのだろうか――
と、疑問に首を傾げている前で、彼女はいきなり私の背中に布地をかぶせた。
「お、ぬ、あっ!?」
「わ、アリサちゃん手早い」
「ふ、こと自分のやりたいことに限って、私に不手際という文字は存在しないわっ!」
そんな冗談のような台詞が本気に聞こえてしまうくらい、それはそれはスムーズに、アリサ嬢は私に服を着せていた。
「完成!似合ってるわよザフィーラ!」
頭にシルクハットを乗せた後、大きな声で宣言しながら、少女が胸を張る。その手際の良さに、すずか嬢とヴィータは示し合わせてもいないはずなのに、同時に拍手をした。
一体、何が起こったのだろう。
いまだに状況が把握できていない私の前に、アリサ嬢の上半身ほどもある大きさの鏡が置かれる。そこには、ステッキでも持ってタップを踊りだしそうな感じの、おめかしした子犬が映っていた。
「お前――そういうの、結構似合うのな」
ヴィータは私を見つめて、感心したようにつぶやく。
携帯電話のカメラで写真を撮り、アリサは満足げに首肯した。
「よしよし、ノってきたわね。次行きましょうか」
そう言うが早いか、彼女は手早く私の服を脱がせる。またたく間に、別の服を着せられ――
「ぶっ!?」
まるでバリアジャケットを装着するかのような鮮やかさで、私は西洋人形のような格好になっていた。
「可愛い!ザフィーラさん、とっても可愛いよ!」
「ほうら、大丈夫でしょ?自信持ちなさいって『ザフィーラちゃん』」
すずか嬢は星が飛び出んばかりに目を輝かせて手を合わせ、アリサ嬢がにやりと唇を斜めにする。
それは男として、喜ぶべきことなのだろうか――
私は彼女らの賛辞に複雑な気持ちで尻尾を一振りする。現在の自分が獣姿であることがせめてもの救いだった。
「っ―――」
呻き声のような、苦しげな声が背後で響く。振り返ると、ヴィータが真っ赤な顔で拳を握りしめている。
不気味に歪んだ唇。けいれんしている頬。上がるべきか下がるべきか迷っている眉。
「――ヴィータ、大丈夫か」
あまりに苦しげな表情に心配になって、足を一歩踏み出すと、彼女は土下座でもするかのようにその場に這いつくばった。
(頼む、ザフィーラ!こっちくんな!)
「……」
彼女の必死な頼みに、私は事態を察してため息をついた。
余程、私の格好がツボに入ったらしい。そのまま放っておいたら呼吸困難になるのではないかと思う。
褒められるのも嬉しくなかったが、笑われるのもそれはそれで癪である。
大体だ。
(この姿、お前の騎士甲冑と似たようなものだろう)
(――あ、そう考えると何か急にむかついてきた。つーか、はやてデザインの騎士甲冑をその服と一緒にすんな)
けいれんしていたと思いきや、次の瞬間には青筋を浮かべる紅の鉄騎。
「あ、あの、ヴィータちゃん?大丈夫?」
「――いえ、問題ねーです」
様子を恐る恐るうかがうすずか嬢に、ヴィータは慌てて微笑んで見せる。猫を被る、と言ってしまうのは、彼女に失礼かもしれない。なんだかんだで礼儀正しい彼女だった。
「ふーむ、ヴィータにはお気に召さなかったみたいね。ザフィーラは雄なんだし、やっぱりそういう格好の方がいいかしら」
アリサ嬢は真剣な表情を作り、服をつまみあげる。次はこれとばかりに、私に向けて付き出した。
それは、まるでパジャマのような、着心地の良さそうな布地である。それでいてふわふわとして可愛らしく、
そう、まるで――
「――赤ん坊が着る服ではないのか!?」
私が思わずそう叫ぶと、よくできましたとばかりに、アリサ嬢はにっこりと微笑む。
「安心して。ちゃんと男の子用よ。水色だもの」
「性別が問題なのではない!」
「じゃあ、ピンクでいいわけ?」
「でおうぁああ!」
暖簾に腕押しなやりとりに、私は奇声をあげて頭を抱えた。アリサ嬢の余裕に満ちた顔つきからして、私の言いたいことを分かっていてとぼけているに違いなかった。年端もいかぬ少女にいいように言い負かされる守護騎士というのも、なんともしまらない。
私は救いを求めて周囲に顔を向けたが、残りは純粋に私の着替えを期待しているヘアバンドの少女と、事態を面白がって静観している少女。
まさに、四面楚歌。
「まあまあ。新境地が見えるかもしれないわよ、ザフィーラ?」
アリサ嬢は、両手を妖しくうごめかせながら私に迫る。
私は、反射的にじりじりと後ずさり――
逃亡しようと背を向けた私は、驚異的な俊敏さで飛びかかってきた少女にあっさりと捕まった。
「ふっふっふ……観念しなさい」
四肢をばたつかせる私の上から、少女の声が降ってくる。舌なめずりの音がしそうな、喜びに満ちた響きが、鼓膜を震わせる。
ぷるぷると伸ばした足を、白くて小さい、しかしそれでも子犬姿の私よりは大きい手が包む。その先を視線でたどると、アリサ嬢の笑顔が見えた。悪意というにはあまりに微笑ましいが、しかし決して無邪気ではない、小悪魔のような笑み。その表情に、これから起こることを想像して気が遠くなる。
そして――
・
・
・
30分後。
消耗しきった私は、妙につやつやと血色のいい少女二人に見送られ、月村家を後にした。
(――お婿にいけない体になってしまった――)
私の心の呟きに、ヴィータは首を傾げる。
(よく分かんねーけど、まあいいんじゃねーの?これ、はやては多分喜ぶと思う)
朱色の髪の少女は、紙袋を揺らして笑う。中には、着せられた服のうちの何着かが入っていた。すずか嬢の家のペットにはサイズが合わないから、ということらしい。
私としては、少なくとも獣姿の時に服は必要ないのだが、主殿が喜ぶというのなら、その心づかいには感謝しなければいけないだろう。
そう思いながら、夕暮れの道を歩く。
黄昏の色に染まった街は、穏やかな雰囲気に包まれていた。
私は深呼吸をして、夕方の空気を取り込む。
それは、血のにおいではなく、どこかの家庭の夕食や、車のにおい。死ではなく、生活のにおいだ。
すれ違った家族の楽しげな笑い声に、私はつられて口を緩めていた。
「なんか、お腹すいてきたな。はやてのギガウマの飯が食べたい」
(そうだな)
私たちは、何とはなしに頷きあって――
肌の、泡立つ感覚。
それは、危険のにおい。
私たちは後ろを振り向く。
小学生くらいの男の子が、道路に飛び出している。
そして、その子に迫る白の乗用車。
それらの情報を認識した我々は、条件反射のように動き出す。
ヴィータは私を無言でつかみ、そのまま野球のアンダースローのような姿勢で私を投げる。
私が道路に着地するのと、急ブレーキの音が響くのと、通行人の悲鳴が聞こえるのがほぼ同時。
人型に変身し、車に手をかざす。
既に半分以下の速度に減速していたその車体は、私の手に捕まって、その場にぴたりと止まる。
一瞬の沈黙が降りた後、一斉に安堵のため息が周囲に満ちた。
「――怪我はないか」
私は、背後にいるであろう少年に顔を向ける。何が起こったのか分からないのであろう。尻餅をついていたその子は、泣くことすらせずに呆然としていた。
「大丈夫そうだな」
再び声をかけると、彼は目を丸くしたまま、私を指差す。
「おじさん、それ――」
「む?」
少年の指の先を視線でたどる。
この時の状況は、順を追って言葉にする必要があるだろう。
まず私は、服を着たままで月村邸を後にした。これは、後から考えれば完全に感覚が麻痺していたという他ない。
次に、人間形態になった時、子犬姿の時とほぼ同じデザインの服を再構築していた。先例がないから自信がないのだが、自己分析するに、きっともらいものの服を破ってはいけないと思ったのだろう。
最後に、その服なのだが。
――赤ん坊が着る、パジャマのようなふわふわの服だった。
*
その後。
海鳴市では、奇抜なファッションの大男が、夕暮れになると突如として現れるという都市伝説が流れた。
一方では変態じみた、と表現され、他方では前衛的で格好いい、と言われているらしい。噂というものは、実に様々に膨らむものである。
無論、八神家では真相を全力で黙秘した。
ヴィータやリインはもちろん、シグナムやシャマルも、事情を聞いた後は一切この件に触れようとしなかった。私の姿が想像できなかったか、想像したくなかったか。まず間違いなく後者だと思う。
しかし、何事も例外は存在するもので。
「私としてはちょお興味あるな」
主殿は、話を聞いた後にそんな風に言って、屈託のない笑顔を私に向けた。
その時に勢いよく首を横に振りすぎて、むちうち症になりそうだったのは、私だけの秘密である。
今回の教訓。
身だしなみは、いついかなる時でも気をつけるべし。
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