その日、クロノ・ハラオウンが帰ってくると、彼の母親、リンディがリビングで紅茶を飲んでいた。
「おかえりなさい。思ったより早かったわね」
「ただいま。そうだね、意外と書類が楽に終わったから」
リンディのねぎらいに、彼は素知らぬ顔で嘘をつく。今日は極力早く帰るために、明日にまわせる仕事はそのままにしてきた。そうでなければもう2、3時間は遅かっただろう。
クロノがシャワーを浴びている間に、リンディは夕食の準備をする。真夜中とまではいかないが、それなりに遅い時刻だ。自分以外は食事を済ませてしまっているに違いない。
着替えをしてリビングに顔を出すと、テーブルの片隅に赤いものが映った。
それは赤とピンクのカーネーション。クロノとフェイト、それにアルフの三人で購入したものだ。
「今日は、母の日なんだってね。ありがとう、クロノ」
ダイニングのテーブルに食器を並べていたリンディが、彼に口を開く。クロノは首を振って答えた。
「礼を言うのは僕の方だよ。それに母さんが礼を言うべき相手は、フェイトだ」
そもそもは、彼の妹がクロノを誘ったのがことの始まりだった。
花を買いに行こうと言われたとき、彼には皆目見当がつかなかったのだが、地球の習慣では、母親に対してこの時期にプレゼントを贈るものらしい。
自分は「今更照れくさい」と拒否をしたのだが、フェイトの控えめながらも粘り強い説得と、アルフの強引な押しに負けて、プレゼントの購入に付き合ったのである。母思いの娘ができたのは、リンディとしても母親冥利に尽きるというものだろう。
クロノの返事に対して、リンディは柔らかく笑って頷いた。
「フェイトにそれをもらった時には、ちょっと泣いちゃった」
しみじみとした言葉に、黙って頷きを返す。渡す役割は妹にまかせて良かったと彼は思った。自分では、きっとただぶっきらぼうに差し出すだけで、ありがたみも何もあったものではない。
「あの子がね、手紙をくれたの」
リンディは、カーネーションを見つめながら話を続ける。その話は、前もってフェイトから聞いていた。感情表現は苦手だが、健気な彼女のことだ、一生懸命に書く姿が容易に想像できる。夜遅くまで時間をかけて、何度も書き直したに違いなかった。
「すごく、嬉しかった」
そうか、とクロノは答えた。
数秒の躊躇の後、一枚のカードをとりだして、彼女に手渡す。
フェイトに負けず劣らず不器用な彼は、想いを口にするのをよしと出来なかった。
だから、一行だけ。
声に出せば十秒にもみたないメッセージを、彼は30分もかけて書いた。
曰く――
『いつもありがとう。僕は、貴女の息子であることを誇りに思う クロノ・ハラオウン』
カードに視線を走らせたリンディは、眉をしかめて口を閉じる。
短い言葉に呆れたか、それとも大げさな物言いが気に入らなかったのか。
彼女は小さく息を吐き出して唇を震わせた。
「僕としては、砂糖5キログラムとかをプレゼントした方が良いかとも思ったんだけどね」
「――馬鹿ね」
沈黙に耐えかねて言った台詞に、リンディはかすかに濡れた声で、しかし笑いながら返事をした。
「ありがとう。私も同じ気持ちよ」
「同じ?」
母親の言葉の意味をとらえかねて、クロノは首を傾げる。彼の肩をリンディのほっそりとした手が掴んで、彼は目を瞬かせた。
「クロノには、ずっと苦労のかけ通しだったわね。私に負担をかけまいとして、精一杯に背伸びして。そんな貴方が嬉しくて――でも、悲しかった」
それは逆だと彼は思った。
夫がいなくなって、それでも幼かった自分を育ててくれた彼女に、自分は一体何を返せているのかと、クロノはよく思う。
管理局に勤め、日々の仕事に追われて、もう一人前と言える程度には成長した自分は、母の役に立っているのだろうか。
「貴方のお父さんを愛して、貴方を授かった。あの人がいなくなってからも色んな人に助けてもらって、ここまできた。私が、今ここで幸せにいるのは、皆はもちろん――何より、貴方がいたからなのよ」
クロノは、その言葉に何と返事をしていいのか分からなくて、口ごもる。
ただ、いるだけでいい。
そういうものだろうか。
素朴に問う息子に対して、母はあっさりと、しかし力強く肯定する。
リンディは唇を緩め、クロノをまっすぐに見つめて言った。
「ここに産まれてくれて――私を母に選んでくれて、ありがとう。貴方たちが、そして貴方たちの母親であることが、私の誇りよ」
その気持ちは、やはり赤面するほど恥ずかしくて。
でも、不覚にも涙ぐんでしまいそうなくらい嬉しかった。
今、リンディはこんな気持ちなのだろうか。
だとしたら。
もっと早く、言っていれば――
感謝の気持ちを伝えていれば良かった。
「――うん」
小さく頷いた彼の頭を、リンディの腕が優しく抱える。
暖かな感触に包まれると、不思議な安心感があって、クロノはされるがままに立ちつくした。
「さ、ごはん食べましょうか」
リンディに促されてテーブルにつき、夕食を取り始めると、タイミングを見計らっていたようにフェイトとアルフがダイニングに顔を出す。
「あ、クロノ、おかえり」
「やー、いい匂いだねぇ。もう食べたけど」
「フェイト、アルフ、お茶飲む?」
当然のような顔で椅子に座る彼女たちに、彼は緩みそうになる口元を引き締めて、そっけなく振舞った。
「母さんはあまり飲みすぎないでよ。見ているこっちまで体悪くしそうだから」
「まあ。フェイトちゃーん、どうしましょう。息子が反抗期に入っちゃったわ」
「あはは――何だかクロノらしいけどね」
「ほら、あれだよ。クロノはつんでれってやつなんだよ」
談笑の声を聞きながら、クロノは箸を休めて緑茶をすする。
口内に広がった香ばしい液体は、暖かくて、優しい味だった。
[C60]