例えるなら、それはノイズ。
不快というにはささやかで、しかし気付かずに通り過ぎるには目立ちすぎる。
道端に転がっている石ころのような――日常に紛れ込む凹凸。
それが、今日という休日。
(――なんて、ね)
自らの大げさな例えに、アリサ・バニングスは苦笑する。それから、先程と同じように窓の外を眺めて小さくため息をついた。
大きなガラス越しに見える緑の景色は、空からの滴で濡れている。
かすかに響いてくる、シトシトともサラサラとも聞こえるその音は、心の中まで湿らすかのよう。
体内の熱をじわりと奪われるような冷たい感覚に、アリサは小さく身震いした。
「どうしたの、アリサちゃん?」
隣に腰かけていた少女、すずかが、なめらかな長髪を揺らがせて首を傾げる。
「別に。雨がよく降ってるなって思っただけ」
「そうだよね」
アリサのそっけない答えに、ヘアバンドの少女は困ったように笑った。
ここは月村邸。海鳴市の中でもかなり大きい部類の建物である。
アリサと、この部屋の主であるすずかの二人は、久々に都合のあった休日を、特に何をするでもなく費やしていた。
休日に顔を合わせるのは三週間振りだろうか。暇さえあれば当然のように連れ添っている彼女たちにしてみれば、記録的な間隔と言ってもいい。
彼女たちはまだ小学生ではあるが、それでも年頃なりの人付き合いもあれば、お稽古ごともある。時空管理局に努めている友人たちに比べればずっと余裕のある身分ではあるにしても、時間の使い方に制限を感じることは少なくない。そして残念なことに、日々の出来事全てを無邪気に楽しいと思うほどには、アリサはもう子供ではないのだった。
つれづれと思いを重ねたが、要するに。
今日という日が、雨であることが気に喰わない。
アリサの不満は、その一点に尽きた。
「アリサちゃんは、晴れの方が好きだものね」
「普通はそうじゃない?まあ、雨が嫌いっていうわけじゃないけど」
アリサの返事に、友人は頷いて微笑む。多分、彼女は雨が結構好きなのだろうな、とアリサは思った。
すずかは、文学的なことに造詣の深い少女だ。雨に風情を感じることもあるだろう。
アリサとしても、まあその辺の機微は分からないでもない。本だって人並みには読んでいるし、これでも一端の乙女である。
しかし、それでも。
「やっぱり、雨よりは晴れの方がいいわ」
それが、彼女の偽らざる気持ちだった。
暖かい日差しの下、公園を歩いたり、街中でウィンドウショッピングを楽しんだり。
次はどこに行こうかと相談しながら、クレープの一つも口にして。
大切な相手と一緒に過ごすだけで楽しい。それはその通りだと思う。
しかし、せっかくの休日、気が置けない友人と二人で過ごしているのだ。スペシャルとはいかないまでも、よりエキサイティングに過ごしたいではないか。
「うん――そうかも」
すずかは、アリサの言葉をおっとりとした仕草で肯定する。
それから、彼女はぽんと両手を合わせて、弾んだ声でアリサに問いかけた。
「ね。アリサちゃんは、雨の日ってどんなふうに過ごしてる?」
どうもこうもない。こんな風に、部屋の中でDVDを見るなり、本を読むなり。つつましく過ごしているだけだ。
アリサがそう言うと、すずかは頷いた後に、そっとまぶたを閉じる。
「私はね、音を聞くのが好き」
「音?」
「うん。こういった小雨の日にね、目をつぶって耳を澄ませるの」
ヘアバンドの友人に習うようにして、アリサも目を閉じる。
部屋の中では、湿った匂いは感じない。
五感に伝わるのは、地面にふれては弾ける、雨粒の音だけ。
目を開けると、すずかも示し合わせたようにまぶたをあげて、アリサを見つめる。
「すっごく静かなのよね。小鳥も鳴かなくって。こうやって、かくれんぼしてるみたいにじっとしてると、小さな音が、聞こえてくる気がするの」
アリサは内心首を傾げる。
そういうものだろうか、と思うと同時に、そうかもしれない、とも感じる。
どちらにしろ、そう感じる心は、自分には持ち合わせがないような気がして、それがちょっとだけ寂しい。
すずかは、そんなアリサの気持ちを読み取っているかのように、悪戯っぽい表情で笑って続きを口にした。
「例えば――アリサちゃんの吐息とか、心臓の音とか、聞こえちゃったり」
「んな?そんな――」
そんなわけはない。
そう答えようとして、アリサは口ごもる。
ひょっとして、本当に目の前の友人には聞こえているのだろうか。
何か見透かされているようで、思わず呼吸を止める。
別に、すずかは心音が聞こえると言っただけであり、心が読めると言ったわけではない。それに、仮にテレパシーのごとく自分の考えが伝わっているとしても、彼女に対して、後ろめたい隠し事は全くないつもりだ。
なのに、なぜだろう。
彼女に胸の内を知られていると想像すると、無性に恥ずかしい。
多分、自分は今赤面しているだろう。
そう自覚すると、顔が余計に熱くなってくる。
心臓が妙に大きく波打って、その動揺が伝わってしまうと思うと、ますます激しく脈打ってしまう気がした。
「アリサちゃん、背中――向けてくれるかな?」
「え?……えっと、こう?」
友人の唐突なお願いに戸惑いながらも、素直にその場で半回転して、L字型に座る。
ふわり、と空気が動いて。
背中に、柔らかな体温が触れた。
「すずか?」
振り返ろうとすると、目の端にちらりと青味がかったすずかの髪が見える。どうも、伝わってくる熱の正体は、彼女の背中らしい。
「――どう、聞こえる?」
文脈から考えて、すずかの鼓動がアリサに伝わっているか、という意味だろうけれど――
正直なところ、よく分からなかった。
そもそも、すずかのことに意識を移そうにも、早鐘のように鳴っている自分の鼓動がうるさくて集中できない。逆に、すずかの方にばかり、自分のことが伝わっているのではないか。
そう思っている矢先。
すずかは、はにかむように。
小さく、小さくささやいた。
「分かるかな。今――私、どきどきしてる」
アリサは、思わず小さくふき出した。
「あ、ひどい」
むくれたような声をあげるすずかに、アリサは笑いを浮かべたままで首を振る。
「ごめん。そうじゃないの」
彼女のことを笑ったわけではない。
私も、同じだから――どきどき、していたから。
安心して、力が抜けたのだ。
そうすずかに答えて、アリサは耳を澄ませる。
ささやかな雨音。
響く、鼓動。
息をひそめていると、世界にいるのは二人だけなのではないかという錯覚に陥りそうになる。
もちろんそんなことはないし、自分の大切な人たちが欠けている世界なんて願い下げだけれど。
今は、ただ。
彼女のぬくもりだけを、鼓動のみを。背中に感じる。
とくん、とくん。
脈打っているのは、自分の心だろうか。それとも――彼女のものだろうか。
どちらでも、構わないと思った。
「アリサちゃんの背中、暖かいね」
「すずかも、あったかいよ」
何とはなしに手を後ろに滑らせると、すずかの手に触れる。
先に掴んだのは、どちらだっただろう。
彼女たちは、どちらともなく相手の手を取り合う。
目を閉じると、まるで、友人と一つになったような気がして。
きっと――背中の彼女も同じだろうと、根拠もなくそう思った。
しとしと、さらさら。
穏やかな雨音は、ヴェールのように二人の周囲をそっと包み込む。
彼女たちは、ただ、互いの存在を感じていた。
雨が降って、沈む気持ちも。
その間に、誰かといる時間も。
その後に、もしかしたら空にかかる橋も。
鳳さんの文章は、いつも、きれいです。
そういう風に、感じさせてくれます。
だから、晴れがいいんですね。