その日、私、盾の守護獣ことヴォルケンリッター、ザフィーラはいつも通りに居間で目覚めた。
小鳥のさえずる声、しっとりとした朝露の匂い。清廉な朝の空気を吸い込むと、自分の中のよどみが洗われる気がする。こうして、私はしばし、無言の時を楽しむのだ。
家族の繋がりはかけがえのないものであり、彼女たちのとの会話は一言千金にも値する。しかし、一人の時間というのもまた、自らの感覚を見つめるという意味で、私にとっては非常に重要な時間であった。
そう。
私は、五感のみに注意を払い、意識を向けていた。
だから。
彼女と顔を合わせるまでは、全く気付かなかったのだ。
「おはよう、ザフィーラ。今日もいい天気やなぁ」
朗らかな挨拶と共に、主殿が朝日のような笑顔を見せる。私は常日頃のように、口頭で挨拶を――
「――」
返そうと、した。
「……どうしたん?」
私の微妙な表情の変化を、敏感に察知したのだろうか。主はやては不思議そうに私の顔を覗き込む。
声が、出なかった。
そんな馬鹿なと思い、再び口を開いたが、やはり結果は同じ。
しゃべろうとしてあごと舌を必死に動かすと、グルグルという唸り声だけが、喉から絞り出される。
「ザフィーラ、どこか痛かったりするん?それとも苦しい?」
主殿は、いよいよ変に思ったらしい。眉をひそめて心配そうに私をじっと見る。
まずい、と感じた。このままでは不必要に、主に不安を抱かせてしまう。
私は、思念通話を主に飛ばした。
実は、声が出ないのです。
私と彼女の間を、私の思いだけが虚しく通り、そして通り抜けていく。
念話も、伝わらない。
首を再び傾げる彼女を前に、私は愕然とした。
*
「他に異常はないみたいね。原因はよく分からないけれど――」
「やはり、ロストロギアの影響なのだろうか」
シャマルの診察に関して、シグナムが腕を組みながらつぶやく。昨日のロストロギア調査のことを指しているのだろう。任務は、遺跡内にある古代遺失物の確保。人間では入り込みにくいような入り組んだ道だったため、私が持って出てきたのだが――確かに封印されている物質とはいえ、正体不明のエネルギー物をくわえて確保する、というのは少々無茶だったかもしれない。
「こっちからの言葉は分かるんだろ?ザフィーラの言いたいことさえわかれば問題ないんだな」
「何か、便利な方法があればいいですけど……」
「こういうときは、まずは手話、かしらね」
彼女たちの会話に、私は眉をひそめる。身振り手振り、という伝達手段は、間違ってはいない。言葉なしの手段としては、むしろ最も優れていると評価していいかもしれない。
しかし、人間のようには器用に動かせない指で、機微を伝えろというのは、私にはちょっと無理があるのではないか。
私の不安が伝わったのか、ヴィータがこちらを見ながら、軽く眉をあげた。
「――試しに、何かやってみろよ、ザフィーラ」
私は、少々考えた後、主殿に向かってジェスチャーを開始した。
前足を折り曲げて、自分の胸を示す。
両足を差し出して、主を示す。
片足を振り上げて、前方を振り払う。
『私は、貴女を、護衛いたします』と、伝えたつもりだった。
「……」
奇妙な沈黙の後、ヴィータが恐る恐る口を開く。
「『あたしは・はやての・手下です』か?」
私はぶんぶんと首を振る。
「じゃあ――『ザフィーラは、はやてちゃんが・大好きですぅ』ですか?」
リインの台詞にも、私は同様に否定の意を返した。いや、まあ、間違ってはいないが。
「うーん……『俺に惚れるんじゃないぜYou』とか」
ソレは既にジェスチャーの区切りさえ合っていない。連想ゲームをしているわけではないぞシャマル。
脱力している私の隣で、シグナムがあごに指を添えて唸る。
「身振りというのは実用的だが――事前にルールを決めていないと、即興では難しいな」
「筆談、というのはどうですか?」
リインが両手を叩いて案を口にすると、感嘆の声が居間に響いた。
「はい、ザフィーラ」
言葉と共に、紙と、墨汁の満たされたすずり石が差し出される。
……書け、ということなのだろうな。
私は、前足を墨汁にちょいちょいと浸し、紙に向かって、自分の思いを記述する。
ペタン、ペタン、ペタン。
「……」
書き終わった後、先程と同じような気まずい沈黙が部屋を満たす。
「……ザフィーラ。これ、なんかの暗号か?」
「ひょっとしたら、ザフィーラは犬語をマスターしてるかもですよ」
そこに記されているのは、私の足跡。
見事なまでにくっきりとした肉球が、白い紙の上に魚拓のようにくっついている。
いや、すまん。正直なところ、私はペンも持てないし、爪の先で書こうにも、そんなに私の手は器用には動かない。
守護騎士たちのため息がリビングに溢れたころ、主殿がどこからか持ってきたカードの束を、床に並べだした。
「50音でカードを作ってみたんよ。これなら指し示すだけやしな」
落胆ムードから一転。今度は、感嘆の声が八神家を揺らす。
「はやてちゃん、さすが!」
シャマルが代表して感想を口にする。その間に、私は墨汁を拭った脚で、次々とカードを指示した。
「『こ・れ・な・ら・だ・い・じ・よ・う・ぶ』――おお、ばっちりじゃねぇか!」
「さしあたっては、なんとかなりそうですね。いくつかよく使う会話をまとめておけば、仕事も出来るでしょう」
「そうやな」
八神家の面々は、一斉に安堵のため息をつく。自分が彼女たちにいらぬ心労をかけてしまったことを申し訳なく思うとともに、心配してくれるのをありがたいと思った。
若干の紆余曲折があったが、これでようやく、普段の日課に入れる。そう考えた矢先のこと。
「ところで――これ、やっぱりキスとかで治るんやろか」
主殿の一言で、リビングは3度目の不自然な間に支配された。
正しくは、硬直していたのは年長組3人で、ヴィータとリインは首をひねっている。年少組の代表をするかのように、朱の髪の少女は、シャマルに向かって口を開いた。
「……そういうもんなのか?」
「地球のおとぎ話では、王子様にかけられた呪いはお姫様の口づけで解けるっていうのが、お約束ね」
「あるいは、試す価値はあるかもしれません」
シグナムは、淡々と主の意見を肯定する。あまり乗り気ではなさそうだった。
「そか、ほんなら――」
守護騎士の将の言葉を受けて、主はやてはごく自然に私の前に来て、首筋にその細い手を添える。彼女の肩を、即座にシグナムはがっちりとつかんだ。
「……主殿、何を?」
「ものは試しやろ?」
『駄目ですっ!』
シグナムとシャマル、二人の声に、八神家が本当に振動した気がした。
「主はやての大切な――を、臣下にささげるなど――」
「そ、そうよ、はやてちゃん。それは、将来できる人のために、大事に取っておかないと」
「大げさやなぁ、減るもんやなし。それにこれは親愛の印。挨拶でもあるんよ」
守護騎士たちの慌てぶりに、彼女は小さく苦笑する。
そして、軽やかに私の方に向き直り。
実にあっさりと、抵抗なく。
私の額――宝石の辺りに、暖かいものが一瞬だけ触れる。
「!?!?」
この時、私は完全に息が止まっていた。下手をすると心臓まで止まっていたかもしれない。無論、声が出せたとしても出なかっただろう。
「なあなあ、はやて、あたしにもー」
「ああっ、ずるいです!リインにもして欲しいですぅ!」
「二人とも甘えんぼさんやなぁ」
私の様子を見て、何かよさそうなものだと思ったのだろうか。ヴィータとリインは主殿に抱きついて、同様の接吻をねだる。その様子に、夜天の主はくすぐったそうに笑って、彼女たちの頬に唇を寄せた。
その間。
私の体に、ワイヤーが巻きつく。
四足で立っていた私の体は瞬時にハム状態になり、床に転がされた。
「――シャマル、やはり、早急な治療が必要だ。そうは思わないか」
「ふふふ……そうよね。もっときちんと診察して、ザフィーラを元に戻してあげないと……」
主殿たちの、のどかな会話が聞こえる一方で、頭上から雪女もかくやという冷たい声が降ってくる。そのままでいたら、きっと氷漬けになること請け合いだったであろう。
いや、むしろ凍傷で済むなら安いものだ、と考えるべきだったのかもしれない。
私は、彼女たちの台詞の直後、手品か何かのような鮮やかな手並みで、どこか主殿のお目汚しにならないところまで連れ去られていた。
*
その後のことは――筆舌に尽くしがたい「診察」と「治療」があった、とだけ記しておこう……
いや、後日、私の言語出力機能は無事に元に戻ったことも併記しておかなければなるまい。
原因も曖昧なままだったし、何が功を奏して治ったのかも、実のところは不明のままだ。
自然に戻るものだったのかもしれないし、シャマルたちの尽力?の賜物であるのかもしれない。
あるいは――
「声、出るようになって良かったな」
「ええ、おかげさまで」
主殿が、かけた声に、条件反射のように答えると、彼女はこちらを見て笑う。
優しく、それでいてどこか悪戯っぽい表情。
少女は、整った唇で、さらりと続きの言葉を口にした。
「もしまた出なくなっても、すぐに治したるよ」
私は、それに言葉もなく、尻尾を一振りする。
言葉は、扱えるに越したことはない。
しかし同時に、使わないという選択肢も重要である、としみじみ思う。
これが、沈黙は金なりということだろうか。
何とはなしにそんなことを考えて平静を保とうとする私を見て、主殿は楽しそうに肩を震わせた。
ショック療法?
というか、「言葉が話せなくなる=完全に犬になり出番がウッハウッハやで」という神の啓示(ベルカでは聖王だっけか)かも知れませんね。