シグナムの後ろで、扉の閉まる重い音が響く。目の前の豪奢な建物を見上げて、彼女は小さくため息をついた。アルベンハイム家のそれよりもさらに大きな空間を、彼女の感覚で示すなら、過度。鮮やかな色が、きらびやかな輝きが、彼女の目に痛い。
自分の服装を見下ろして、また吐息が漏れる。彼女の髪に合わせた赤と桜色のドレスは確かに美しいが、自分の身の丈にはあっていないような気がして、どうにも居心地が悪かった。
「元気がないね、シグナム。やっぱり、こういったところは苦手?」
彼女の主は、隣でそっとささやく。彼の服装も普段よりずっと豪華で、いかにも貴族といった風情だ。
「……よく、分かりません。経験自体があまりないもので」
「そっか。うん、実は僕も得意じゃない」
クラウスは、そう言って苦笑する。人懐っこい笑顔は、着飾っていてもやはり彼のままだった。
第3話 紅 蒼 翠 舞踏会に参加する。
クラウスの部屋に入ってきた彼の兄は、開口一番そう言った。
領主同士の付き合い、というものだろう。権力というものは、コネクションなしには発生しない。パーティという名目の元、根回しや謀略が行われるのも珍しいことではない。
(まあ、主クラウスには関係のないことか――)
主人の隣で人事のように聞いていたシグナムは、ベルンハルトの次の台詞を理解するのに、数秒を要した。
「何なら、シグナム嬢もついてくるか?衣服が必要であれば、用意させる」
自身が硬直しているらしいということに気付いたのは、クラウスの困ったような声に我に返ってからだった。
「ええと、今回は、僕はみんなと留守番ってことにしたいんだけど……駄目かな?」
「駄目だ」
弟の質問に、にべもなく返事をする兄。「だろうね」と両手を挙げ、クラウスはシグナムに目を向ける。
「シグナムはゆっくりしているといいよ。疲れてるだろう?」
「いえ。是非お供させてください」
自分は主の護衛のためにとどまっているのだ。彼が外出するというのに、のうのうと休んでいられようか。凛とした表情で答えると、クラウスは一瞬迷いの表情を見せた後、頷いた。
そこから、屋敷内の女性に着せ替え人形にさせられたり、普段の五十倍の時間をかけて髪を結わえられたりと、彼女にとってはある種拷問のような時間が続いた後、現在に至る。
会場までたどり着き、その片隅でクラウスと二人になったところで、幾度目かのため息をついた。もっともそれは、本来の自分の任務に思考を戻せるという、安堵から出たものだったが。
(それにしても――土地によって随分と違いがあるな。今更だが)
紳士淑女の集まりを目に映しながら、彼女は道中の光景を思い返す。屋敷近辺の土地は丁寧に手入れがされており、道も整っていた。一方で、別の領主が治めている土地の境目などは、荒廃して作物ができるような場所ではなかった。
そのギャップはどこからくるのか――考え出すと、あまりいい解答は出てこない。気分が悪くなりそうで、シグナムは額を押さえた。
「はい、シグナム」
目の前に差し出される、赤紫のグラス。驚いて顔を挙げた先には、優しげな紅の瞳。
「お酒はあまり好きじゃないかなと思って、ジュースにしてみた。ここの葡萄はなかなかだよ」
「も、申し訳ありません」
「女性をもてなすのが男の甲斐性だよ、フロイライン」
慌てて頭を下げるシグナムに、クラウスはおどけたように答えた。恐縮しながらグラスを受け取ると、花のような芳香が鼻をくすぐる。口に含むと、程よい甘味と酸味が広がった。
「――ありがとうございます。美味しいです、とても」
遅ればせながら礼を述べた彼女に、少年はにっこりと微笑む。
「主クラウスは、こういった場所にはよく来られるのですか?」
「まあ、それなりには。今回みたいに、兄さんに連れてこられるのがほとんどだけど」
彼の視線の先では、兄が輪の中心になって談笑している。クラウスは自分のグラスに口をつけてから、誇らしげな口調で言った。
「本当にすごいんだ、兄さんは。昔から、自分の道をきちんと決めて、いつでもその先を見てる。僕の将来まで、こうやって気にかけてくれるしね」
「貴方の目標、ですか」
「理想、かな」
主の言葉にどう返していいのか分からなくて、シグナムは赤紫の液体を口にした。
若くから領主を務める才能と人徳。憧れるのももっともだと思う。
しかし、クラウスには別の美点があることも、彼女は知っている。
「私は――貴方が主でよかったと思っています」
迷った末に口をついた言葉は、彼女の意図どおりに主に伝わっただろうか。
「うん……ありがとう、シグナム」
はにかむように笑ったクラウスに、気恥ずかしくなって顔が熱くなる。口を隠すように、シグナムが唇にグラスを近づけたところで、拍手が会場の奥から沸きあがった。
「領主殿のおでまし、ですか」
「うん、そうみたいだね」
姿を見せたのは、屋敷の雰囲気と同じ、きらびやかな服を着た中年の男。恰幅が良い、と言えば聞こえはいいだろうか。聞こえ悪く言うのははばかられるので、シグナムは考えないことにする。彼女とクラウスはベルンハルトと合流して、このパーティのホストに挨拶をした。後ろに控えて、二言三言話すだけだったので、大したことはない。しかし、対面するまでの先入観のせいか、あまり良い印象をその領主に持つことは出来なかった。
そして、その嫌悪感は、すぐに彼女にとって決定的なものとなる。
宴もそれなりに盛り上がり、アルコールが参加者の体に染みた所で、隅で主人と共にたたずんでいたシグナムは、例の領主がこちらに歩いてくるのを見た。
「おや、アルベンハイムのお二人は、あまり楽しんでおられていないようだ。今日の酒は口に合わないかね?」
「いえ。大変美味しくいただいています。私もシグナムも、酒の精にすぐに酔ってしまうゆえ、あまりお恥ずかしいところを見せぬよう、控えているのです」
「なに、酔うのは大いに結構!羽目をはずしてこそ、酒宴というものだよ」
クラウスのそつのない返事に、領主は喉の奥まで見えそうなほど口を開いて笑う。それから、にやけたままシグナムの全身を眺め回した。
「それに、普段と違うものが見れるのも酒の良いところだ。清楚なシグナム嬢の乱れるところなど、わしは是非見てみたい」
近づいた彼の口から、強いアルコールの臭いがただよってくる。相当酔っているのだろう、さらに顔を近づけ、犬が食べ物にするかのように鼻をひくつかせた。
「陶磁のような肌、花も色あせる香り。貴女は実に美しい」
肩に触れるその手に、彼女は全く抵抗しようとはしなかった。愛想笑いも浮かべない代わりに、眉一つも動かさない。気分のいいものでないことは確かだが、彼女にしてみれば些細なことだ。下手に粗相をして主に迷惑をかける方が、比べ物にならないくらい心苦しい。
シグナムの二の腕をなでていた手が、滑り降りて腰の辺りにまわる。その手を掴んだのは、彼女ではなく主だった。
「恐れ入ります。大切な友人を賞賛していただけるのは私としても大変喜ばしいのですが、他の方々も――きっと貴方のお話を待ち望んでいらっしゃいますよ」
「――ふん、ベルンハルト殿の腰巾着の小僧が何をぬかすか」
目の前の女の眉が動いたことに気付かず、男はクラウスを半眼でにらむ。
「それにしても、お主は兄たちと似ておらぬのう。その血のような不気味な眼、アルマ殿の美しき翡翠の輝きとは全く別物。兄のような覇気があるでもなし――」
本当に、お前はアルベンハイム家の息子なのか。
その罵りの言葉が耳に届くのと、シグナムが自らの剣を呼び出そうと胸元の鎖に手をかけるのはほぼ同時であり、そしてクラウスの制止の手はそれよりも一瞬早かった。
「ええ、兄たちのようになれぬのは私の不徳の致すところ。申し訳の言葉もありません」
満足そうに唇をゆがめ、なおも嗜虐心に満ちた目のまま口を開こうとする領主に、クラウスは頭を下げたまま言葉をつなげる。
「しかし、我が兄、姉を慕う心は、他の誰にも引けを取りません。仮に私が彼らの弟でなかったとして、本当の家族がアルベンハイムに刃を向けたとしても」
頭を挙げ、覗いた紅の瞳が、男を射る。その強い光に、領主はのけぞり、そこに静かな声が追い討ちをかけた。
「私は迷わず、その者どもを斬りましょう」
「っ……ははっ、お主がか?ろくに剣を握ったこともなかろう。勇ましいのは結構だが、気持ちだけでは――」
「ならば、ご自分の身で試してみますか?」
クラウスよりも一回り威圧的な声。決して大きくないにもかかわらず、その低い声は聞くものを緊張させる。ベルンハルトがいつの間にやらそばに来て、冷たい視線を領主に向けていた。
「我が弟は、魔力資質なら私をしのぐ才。性格ゆえ、あまりご披露する機会はありませんでしたが、お望みとあらばクラウスも喜んでその腕を振るいましょう」
「ぬ、そ、そうか。それはまた、アルベンハイム家も安泰で結構なことだ。しかしこんな場所で魔力を無駄使いすることもない。クラウス殿の言葉の通り、他の客人をもてなすことにするとしよう」
クラウスの話が効いたのか、それともベルンハルトの視線が堪えたのか。男は挨拶もそこそこに、足早にシグナムたちのもとを立ち去った。
「……やれやれ、あの人の酒癖にも困ったものだ。すまない、シグナム嬢。不快な思いをさせた」
頭を下げるベルンハルトに、シグナムは慌てて首を振る。
「いえ。私のことなどより、クラウス様のほうが」
「構わないよ。僕も、君に嫌な思いをさせたことの方が辛い。ごめん」
クラウスは、眉をひそめてシグナムを見る。非難の的となった、ルビー色の瞳。聞いたことはないが、恐らく両親を含めて、家族のうち彼だけがその瞳なのだろう。言葉の棘で傷つけられてきたであろうことは想像に難くない。跡取りでもない境遇では、厄介者扱いされたこともあったかもしれない。
だから、そんなにも、他人の――彼女のことで、心を痛めるのだろうか。人間ではない部下に、自分の境遇を重ねて。
(――それが、何だと言うのだ)
シグナムは首を振って、思考を打ち消した。主が自分たちのことを気遣ってくれる。それだけで十分ではないか。理由を邪推すること自体が彼を傷つけるような気がして、彼女は自分を恥じた。
「帰るか。ここにいてもあまり居心地は良くないだろうし、私も用は済んだ」
ベルンハルトの言葉にクラウスが頷いて、主はシグナムの手をとった。
「行こう、シグナム」
暖かい手が、彼女を包む。柔らかなぬくもりが、彼女の鼓動を大きくし、同時に安心させる。
「先程はありがとうございました。主クラウスのお心遣い、感謝の言葉もありません」
クラウスは、シグナムの言葉に視線を天井に向けて、少ししてから納得したように頷いた。
「それを言うなら、僕だって同じだよ。さっきシグナムが剣を抜こうとしたとき、僕のために怒ってくれてるんだって思ったら、すごく嬉しかった」
紅の目が、優しく細まる。彼女は、その瞳を綺麗だと思った。
彼女たちは車に乗って城を出る。
その時。
主の体が異様に熱く、汗ばんでいることに気付いて、シグナムはクラウスの肩を支えた。
「主クラウス、どうしました」
返事は、荒い息遣い。全力疾走した後のように空気をむさぼる彼は、シグナムの胸に倒れこみ、そのまま眠り込むように気絶した。
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