「――逃したか」
蒼の甲冑をまとった騎士は、数秒前まで三つの人影があった虚空を見つめて、ぽつりと呟いた。
繰り出した矛での突きが白銀の甲冑を捉えたのは良かったが、射程範囲外である上に当たった位置が急所には程遠い。迎え撃つつもりで、不用意に一つ手の内を明かしてしまった。
手にした武器を一振りすると、双剣となって腰の鞘に納まる。改めて周囲を見渡して、騎士はため息をついた。
その場に倒れている騎士の数は二十を超える。一個小隊がほぼ壊滅だった。そのままであれば近隣にいる他の部隊にも被害が及んでいただろう。それほどに、先程の三騎士は圧倒的な力を持っていた。逃した、と自分は口にしたが、恐らく見逃してもらった、が正しい。一対一ならまだしも、三対一では勝ち目を見出せそうにない。
「体勢を整え次第、ここを撤退するように」
蒼騎士は、かろうじて立っている部隊長らしき騎士に命令をした後、元々の戦場に足を向けた。
移動しながら、思う。何の目的で騎士を襲ったのかは分からないが、次に遭遇したときには様子見ではきかないだろう。全力で倒さなければならない。蒼の騎士の、魔道師としての知識と軍人としての経験がそう告げていた。
第2話 アルベンハイムの領主 優しい翠の瞳が、クラウスを見つめている。
頬をなでる柔らかい掌。ふわりとただよう花の香り。
「母さん」
目の前の女性をそう呼ぶと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
『クラウス、いい子ね』
そう言って、女性は彼を抱きしめる。
包み込まれるような暖かな感触が、クラウスは好きだった。
『お願い――この子、だけは――』
唐突に、優しい声が悲壮な響きに塗りつぶされる。
ぽたり。
生暖かな感触。
頬を伝って、あごから、胸へ。
ぽたり。
通った筋を、指でなぞる。
ぬるりとした、赤い液体。
駄目だ。
見てはいけない。
いいや。もう遅い。
否定する自分と、諦める自分。
両者がせめぎあうように、クラウスは、ゆっくりと、顔を挙げ――
*
クラウス・アルベンハイムの目の前で、シャマルは戸惑っていた。
午後の、うららかな日差しの時間帯。部屋の窓際でうたた寝をする彼の顔はあどけなく、主の様子を見にきたシャマルを微笑ませた。寝冷えをしないようにと掛けるものを持ってきたその時に、穏やかな表情を一転させて、彼は熱でもあるかのようにうなされていたのだ。
「う、くっ」
息継ぎをするかのように、クラウスは唐突に顔を挙げ、目を開く。深い、緋色の瞳がシャマルを見つめた。
「かあ、さん――」
「……クラウス、さま?」
差し出された手を思わず握る。すがりつくような眼差しに、理由もなく彼女の胸が締め付けられた。
見詰め合うこと数秒。
クラウスは口を開けたまま、白い頬を朱に染めていく。唐突に、落ち着きなく視線をさまよわせた。
「ご、ごめんシャマル。その、寝ぼけてた」
「いえ……私のほうこそ、お休み中にすみません。うなされていらっしゃいましたけど、大丈夫ですか?」
「え、ああ。時々あるんだ。気にしないで」
彼はあっさりと言うが、気にするなというのは無理な話だ。シャマルの表情から気持ちを読み取ったのか、それとも単純に話題をそらそうとしたのか、クラウスは彼女の顔をじっと見て、それから微笑んだ。
「シャマルは、雰囲気が僕の母に似てるんだ」
「そう、なんですか?」
シャマルは、彼の言葉に首を傾げる。母親の雰囲気、というのはどういうものなのか、イメージがつかめなかった。
「うん。話し方とか笑い方とか、柔らかな感じがね。母は僕にすごく優しくて、よく頭とか頬とかをなでてくれたっけ」
うろ覚えだけどね、と、彼は照れくさそうに笑う。それを聞いて、シャマルは穏やかに返事をしながらも、そっと目を伏せた。
クラウスの両親は、もうこの世にはいない。
出会ってすぐの頃、彼はそれをこともなげに言った。いや、内心は平気ではなかったかもしれないが、それでも口に出せるようになるまではつらい思いをしてきたに違いない。現に今も、きっと母の夢でうなされていたのだから。
彼は、そんな彼女の思いには気付かないように、いたずらっぽく口元を緩める。
「そうそう、少しうっかり屋なところも、シャマルにそっくりだったよ」
「あう、それは……ちょっと複雑な気分です」
シャマルの渋面に、クラウスが吹き出す。つられて彼女も笑った。
ノックの音がして、扉が開く。その姿を見て、シャマルは即座に気を引き締めた。
「ここにいたか、クラウス」
「兄さん」
ベルンハルト・アルベンハイム。アルベンハイム家の長男であり、同時に若き領主でもある。クラウスと同じ色の髪を後ろに撫でつけた美丈夫は、翡翠色の瞳を自分の弟に向けて口を開いた。
「少しの間屋敷を空ける。いつも通りだが、留守中に何かあればエルフリーデに話せ」
「分かった。あんまりエル義姉さんを寂しがらせちゃ駄目だよ」
クラウスの冗談に、ベルンハルトは口を斜めにする。にやり、といった感じの笑いだったが、威圧感がないのは相手が弟だからだろう。シャマルを横目に見ながら、軽く肩をすくめて弟に反撃をする。
「お前の方は程々にな。アルマが泣くぞ」
「姉さんは関係ないし、そもそも何のことか分からないよ兄さん……」
呆れたような調子で返事をするクラウスの顔は少し赤らんでいて、シャマルを女性として見てくれていることがうかがい知れる。その初心な反応は自分たちに好意を持ってくれているということなのだろうと思うと、彼女は嬉しかった。
「愚弟をよろしくお願いする」
頭を下げる領主に、シャマルは慌てておじぎを返す。彼はクラウスたちに挨拶代わりに一つ頷いて、颯爽と出ていった。
ベルンハルトは、よく外出をする。治めている土地の視察から他国との戦まで、目的は様々で、守護騎士たちは彼と食事を共にしたことも数度しかない。それは彼らにとっても、正体をかんぐられる機会が減るために都合が良く、ベルンハルトや彼の妻であるエルフリーデが屋敷にいるときでも、極力立ち入った話をするのを避けていた。
「一つの地方を治めるというのはきっとすごく大変なんだろうなって、兄さんを見てると思うよ」
クラウスが、扉を見ながら呟く。相槌を打つシャマルを見て、彼は目を細めた。
「僕も、頑張らないとね。闇の書の主として」
何気ない言葉に秘められた、穏やかな少年の決意。シャマルは、返事をしようと口を開き――
(シャマル、どこだよ!?早く部屋に来い!シグナムが!)
唐突に投げかけられた念の声に、彼女は思わず立ち上がった。
「シャマル?どうしたの?」
「シグナムたちが戻ったみたいです。すみません、ちょっと様子を見に行ってきますね」
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